「仮面ライダーゴースト」が面白くなかった3つの理由

2016/9/25に仮面ライダーゴーストの放送が終了しましたが、シリーズ最底辺と感じた作品でした。


平成ライダーシリーズはすべて観ているので、この作品も1年間視聴を続けましたが、面白かった瞬間というのが何一つ浮かんできません。シリーズすべてを観ていて贔屓目すら入る私の観点から見て、そういう感想に至る作品というのは逆にすごいと思ったので、何が面白くなかったのかを記事にしてみることにしました。


ストーリーに関して大きくネタバレしているので、内容は続きから。



○生き返る、という目的
「俺の名は天空時タケル。18歳の誕生日に眼魔に倒されて、生き返るために15個のアイコンを探している」というナレーションで毎回スタートするように、主人公のタケルは第1話で命を落としてしまいます。しかし、99日以内に15人の英雄アイコンを集めることができれば蘇ることができるため、アイコンを集めるために仮面ライダーゴーストとなって眼魔と戦うというのがあらすじ。
生き返るため…と言うと強い思いのように聞こえますが、主人公が生に執着があるようにはあまり思えません。「生きている間にやり残したことが…」「生き返ったらこれをしたい」という思いがあるなら、生き返って目的を果たすために戦う姿に惹かれるものがあったかもしれませんが、そういう思いはあまり感じられず。「死んじゃったけど生き返るチャンスがあるらしいから、それで生き返れたらいいな」くらいの姿勢にしか感じませんでした。
また、視聴者から見ると、ゴーストとして戦う99日は生前とほとんど変わらない生活を送っているように見えてしまいます(実際には生前と違う部分はあるにも関わらず)。例えば、タケルは劇中で全く食事をしていないのですが、最終回で生き返っておにぎりを食べるシーンを見るまでそれに気付くことができませんでした。そういう「死んでしまった感」の描写もなく、周囲の人間から認知されて普通に会話ができる日常を見ていると、命を落としたことの重大さを感じづらかったです。
しかも、15個のアイコンを集めたのはタケルではなかったのに、なぜかタケルが願いを叶える権利を手に入れる展開になります。そこで自らが生き返ることよりマコトの妹を元に戻すことを優先して、タケルは消滅のときを迎える・・・のですが、父親のよく分からない力で期限を延ばして消滅しないで済むというのが序盤のエンディングです。タケルが死んでいる事実を感じづらい中で、消滅期限は物語に緊張感をもたらす唯一の要素であったのに、それが簡単に延ばされてしまうようでは・・・。


○「雑な命の扱い」と「シリアス場面でのコメディ」と「説明不足」
記事タイトルに3つの理由と書いてるのに、この項目だけで3つありますね((
「人生は誰も皆一度きりさ♪」という歌詞が主題歌にあるように、この物語のテーマには「命の重さ」というのがあったと思っています。ところが、その歌詞を裏切るかのように主人公は生き返ったり消滅期限を延長させられたりするように、他のキャラクターに関しても命の扱いが非常に軽く感じる場面が多かったです。
命の扱いに関しては、フミ婆の扱いが特に酷かったと思っています。彼女の死がネクロムに変身するアランに変化をもたらすわけですが、病気の兆しもなければ戦闘に巻き込まれたわけでもなく、本当に突然死でした。キャラクターが変化するきっかけとして別のキャラクターの死が必要なことは分かっていますが、その場合には死を迎えるキャラクターをしっかり描く必要があると思っています。しかし、突然死となってしまえば、それを感じることはできませんでした。その他にも、眼魔の世界に身体があることを理由に「魂の入ったアイコンさえ失わなければ何度でも蘇られる」と言わんばかりに消滅したキャラクターが度々出てくることもありました。
また、シリアス場面でのコメディも結構酷かったと思っています。テーマが命なだけあって、注意しないと物語が重い方向に進んでしまうので、それを防ぐためにコメディ要素を取り入れることは重要だと思います。しかし、本作ではシリアスな場面で突如コメディをぶち込まれることが非常に多く、とても不自然に見受けられました。
印象的なのは、アカリの魂が眼魔に抜かれたことに御成が激怒して立ち向かう回。修行の成果と言ってマトリックスに挑戦して弾丸を避けた直後に体を痛めて倒れるシーン。身近な人間の魂が抜かれるというかなりの緊急事態のはずなのに、戦えない御成が出しゃばって笑いをとるシーンがなぜ必要だったのでしょうか。
もう一つは終盤まで敵役となるアデルの計画。「世界と繋がった、私が世界だ」という言葉は敵役にありがちなものでしょうが、全人類の顔がアデルそっくりになる演出は「そういうことなの?」と笑ってしまいました。
そして、世界観の圧倒的説明不足が目立ちました。先述しているように「アイコンを集めた張本人ではないタケルが願いを叶える権利をもらえる」「死んだはずの父親のよく分からない力で期限延長」など・・・これらだけでも視聴していて理由が分からないモヤモヤ感があるのに、説明不足のシーンはこれだけに留まりませんでした。最初にアイコンを15個集めた西園寺の行方、一度倒したはずなのに復活する眼魔・ジャベルなど「どうしてそうなったのか」の説明が全くなく平然と行われているようでは、ストーリーに納得できないでしょう。


○キャラクターの魅力と群がり
魅力的なキャラクターがほとんどいませんでした。。。
まずは主人公のタケル。非常に純粋な心を持った青年なのですが、それ以外に目立った特徴のないキャラクターになっています。その真っすぐな気持ちで夢・希望・絆・愛などを語るのですが、背景がないと綺麗事ワードをただ振りかざすだけになってしまい、そんな彼に影響を受けて周りの人間が変化していくところに全く説得力を感じませんでした。そして、張本人も「人間の可能性は無限大だ!」とそれを思い信じることだけで戦う力を得てしまうところも都合の良い話で、最終的には「彼は不思議な存在だ」という言葉で解決して、周囲も彼を崇めるかのようになっていくのは正直気持ち悪かったです。
次にタケルの幼馴染でありヒロインポジションであるアカリ。幽霊など不可思議現象と相反するように理系女子という設定が組み込まれているのだと思いますが、それ以上の膨らみが全くなかった気がします。また、よくよく観察してみると服装のセンスがかなりダサいです・・・。「服に無頓着」とかいうより「組み合わせ方が絶望的」で、理系女子を意識してるのかもしれませんが、ヒロインにかわいらしさを感じる場面がほとんどなく、ヒロインとして見えませんでした。
また、彼らと行動を共にすることの多い修行僧であるシブヤ・ナリタ。この2人はシーンの関係で画面に映ることは多いのですが、その割にはまともにセリフが回ってくることが少なく、最終話まで観てどちらがナリタでどちらがシブヤか分からなかったほどキャラクターに違いを感じませんでした。同じくマコトの妹であるカノンも画面に映ることは多かったのですが、彼女も心優しい妹キャラという設定以上に膨らみはありませんでした。「自分にできることをやる」という場面では「この子にはいったい何ができるの?」と思わされましたし、何もできないその無力さを嘆いて思い悩むこともありませんでした。理系女子設定のアカリを可愛いキャラにすることに失敗したために、可愛い女の子キャラとして出し続けなくてはいけない・・・という理由で最後まで一緒だったと思えるほどです。
そして、2代目・3代目のライダーであるマコトとアラン。この2人に関しては最初から眼魔の世界と関わりがあったこともあり、それぞれに複雑な事情を抱えていたりと本作の中ではまともなキャラクターでした。ただ、彼らに関しては終盤の扱いが酷く、特に本編の最終回では「ここは俺たちに任せろ!」と雑魚キャラを引き受けるのですが、その見せ場すら乱入してきたエグゼイドに奪われてしまい、見せ場のないまま終わってしまいました。そういえば、この2人は衣装が毎回同じという設定もありましたが、これも実は裏でちゃんと意味があったりするのでしょうか。
このように各キャラクターの設定が全体的に薄かったのですが、それだけならまだしも、これらのキャラクターが常に群がる行動習性を持っているのが個人的には結構好かない要素でした。そもそも私自身が「群れる」ことを好まないのですが、薄いキャラクター性を数で補おうとしてるようにも見えてしまいます。しかも、彼らは戦闘時には役に立たないことが分かりきっているのに、一緒についていき戦闘に巻き込まれるという迷惑っぷりを発揮することもあり、良いことも特にありませんでした。


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とまあ、簡単に挙げてもこれだけ悪い部分が目立つ作品でした。「悠木碧演じるユルセンとのゆるーい日常を描くだけの作品の方が需要ありそう」というのが冗談で済まないほどだと思っています。
逆に言えば、平成仮面ライダーシリーズの評価の底辺ができたということなので、今後はこれを下回ることはそうそうないと思いつつ、少し面白い兆しが出てきたエグゼイドを引き続き楽しみにしたいと思います。