「リア充」という言葉の感覚

リア充という言葉がありますが、私はこの言葉の感覚がよく分かっていないのでほとんど使ったことがないです。


ちょっとだけ考えたその理由です。



まず、1番大きいのは「リアル」の感覚がないことです。リアルの世界が充実しているという考えの元には、非リアルなる世界が存在していることになります。ネット上のコミュニティに入り浸る人間が実生活が充実していないことを自虐的に表現するために使われたところにリア充の起源はあるみたいですが、私の場合はインターネットは情報を収集する一つの手段として利用していてネット上で別の人間(会ったことのない人)とコミュニケーションを取ることがなかったためか、ネットを使う時間は実生活(非リアルの感覚がある人からそう表現されているもの)の延長であり非リアルな自分というものが存在せず、リアル感を意識することがありませんでした。
今でこそ、このようにネット上で活動をしていますが、他人とコミュニケーションをとったときにリアルの感覚(非リアルの感覚がある人からそう見えるもの)のままコンタクトを取ってしまったかなという印象を事後の感想として抱いたことがあったので、ネット上でコミュニケーションを取るときは何か別の感覚を持って発言する必要性を少し感じました。ただ、私にリアルとか非リアルの感覚がないために、何を基準に境界を決めるかが定かではありません。


次に、「充実」の感覚について。これはネット上での活動は全く関係ありませんが、やはりこの感覚も私には備わっていません。
例えば、今日は何をやっても巡り合わせも悪いしダメだったという日があったり、逆に色々と事が順調に進んだりする日があったりと日々の達成感としては良し悪しの波があるかもしれません。多くの人は、これを1日という単位で区切り「今日は充実していた」というように表現したりするのでしょう。
私の場合は、巡り合わせの悪い日があったとしても次に来る順調な日を迎えることができたのは先日に達成感が低めな日々があったからというように自分にとって良い出来事も都合が悪かった時間があったからこそ巡ってきたと考えてしまいます。また、10ある仕事を5しか完了できなかった時も、3しか完了できなかった可能性もあるから5終わらせたのはある意味では十分(勿論、目標を定めている以上十分ではありませんが)と捉える思考が身についてしまっています。
極端な例で言うと、「充実してなかったなぁ」と後悔したくなるような過去の日を充実させるための手段を知っていて、それを実行できて充実させることができる世界があったとしても、その翌日に命を落としている可能性だってないとは言い切れない。なので、その充実してなかった日があってもそれは今を生きているというトータルで見れば些細なものにしか見えないということです。それでいて今という瞬間は移り変わっていくので充実感を測る人生トータルも一定に収まらず時の流れにつれて増えていきます。そういうわけで充実しているとかしていないという感覚は人生の終焉でしか感じられないものなのかと思っています。そのため、自分の人生で後悔したことはありません。「あそこでこうしていれば…」と思うことはありますが、そう思える日々があることの方が価値があると言えます。どちらかと言えば、多少は未練が残るくらい過去に執着心を持って生きれた方がいいのかもしれませんが。


リア充でないというのは「非リアルの充実の度合い」「リアルの充実してない度合い」のどちらかと言えば、主に後者でよく僻むような形で使われているのを見掛けます。リアル感も充実感もない私が言うのもあれですが、憧れじゃなくて僻みなんですよね。僻んでるくらいならリアルが充実する方法を考えて行動する方がよっぽどいいと思うのに、僻みから自虐に陥るのは自分を悲劇の主役みたいに思い込んでいる節もあると思うので自己満足を叶えられてある意味リアルを充実させている思うのですが。まあ、そうでも思わないとやってられないという面があるのでしょうね。