「天才を殺す凡人」の感想。

「天才を殺す凡人」を読んだので感想を。

 

○大雑把な要約

人間には「天才・秀才・凡人」の3つの才能がある。これらはそれぞれ順に「創造性・再現性・共感性」を軸として物事の評価を行うので、軸が異なることによってコミュニケーションの断絶が生まれる。特に、天才は凡人からは理解されず秀才からは妬まれる場合もあり、民主主義的な多数決の世界では天才は数の暴力に負けて殺されがちである。

ただ、凡人は共感によって天才を孤独にさせず生かすことができる。そうして天才が創造したものを、秀才が再現して凡人に落とし込み、凡人によって共感されて広まっていく・・・という流れを経てイノベーションが起きる。

そして、人間は量は異なれど個人で3つの才能全てを持っている。まずは自分がどのタイプの才能を持っているのか見極めよう。また、他者及び自分の中にある天才を無自覚のうちに殺してしまわないように・・・。

 

 

○構成について

本書の構成は「元になった著者のブログ記事」「それに対するコメント」「モデルケースとなるストーリー」の3つに分かれています。

個人的にはストーリーはあまり必要なかったように思います。おそらく実際のケースに理論を適用させるイメージを持たせるため「共感性」に訴えかけるものなのかと思いますが、著者が主張したいところと少し噛み合わない部分があるように感じました(話の分かりやすさ故に登場キャラクターを全て1つの才能タイプに割り振っているが、実際には人は各々量は異なれど3つの才能全てを持っているため、読者が他者を身勝手にカテゴライズしてその他の可能性を潰すことを助長させないかという危惧)。

ブログ記事に対するコメントを掲載する形式は少し面白かったです。本を読んだ後はネットでレビューなどを調べて他の人はどういう風に感じたのかを見ることが多いのですが、それに比べると内容に具体的に触れる意見が多くなるため、他者の考え方をより知ることができます。ただ、全てのコメントが掲載されるわけではないので、抜粋が恣意的に行われている可能性はあります。また、ブログ記事とコメントを読みたいなら(元記事が無料公開であるなら)本を買う必要はなさそうですね。。

 

○主張についての所感

組織や集団における人間関係を言語化してタイプやモデルに落とし込む……という意味では、面白かったです。自分でそれについて考えたり他の何かから聞く経験もなかったので新鮮に感じました。

この考え方を理解してどのように自分の才能を活かしていくかについてはあまり語られていません。おそらく、著者も天才に分類されるタイプであり、殺されるような経験を度々してきたものと思われるので、まずは才覚を殺さないようにするために「評価軸の違いがコミュニケーションの断絶を生んでいる」ことへの理解を望んでいるというところでしょうか。 

 

 ○才能を殺さないためにできること

本書では「才能を殺さないための理解」を主張していますが、そのためにどうすればいいかという取り組みについては書かれていません。構図を理解したとしても、それを活かすための方法が分かっていないと、無自覚に才能を殺してしまうことは起こり得ると思います。というわけで、殺さないために活かす方法を考えて、まずはそれを自分で実践するのが良さそうだと思い、できそうなことを考えてみることにしました。

自分で自分の才能を磨くにあたって、どれもアプローチを繰り返して経験を重ねることで学ぶことになると思いますが、習得の難易度としては「論理性<創造性<共感性」(難易度なので右に行くほど難しい)だと感じました。論理性はこの中で唯一絶対的なものであり、周りの環境に左右されないためアプローチに対する評価が行いやすいです。創造性ですが、これが難易度として共感性より低いと思うのは「取り組みとフィードバックが個人でもやりやすい」ことです。対して、共感性は相対的で且つ周囲の人間の協力が必要な上に個人差が大きいので、評価やフィードバック自体が難しく最も難易度が高く感じました。

まずは論理性。これは先述の通り絶対的なものなので比較的難易度は低いです。できる習慣としては様々な物に「なぜ?どうして?」と理由を考えていくことでしょうか。このときに重要なのは「なぜ~なのか」だけでなく「なぜ~でなくてはならないのか」も考えることだと思います。

次に、創造性。簡単な評価方法が「共感からの反発具合」であると記述があるのですが、これはつまり常識的な手法や考え方をひっくり返したものは新たな今までにない価値の創造に繋がる可能性があります。そういった着想で行けば創造的であるものが創出されるので、これを始点の考え方としてアウトプットを繰り返していくのが良いでしょうか。ただ、これがやりづらい部分としては、膨大な時間が必要になることでしょう。創造は100創出して1つでも価値あるものがあれば評価されるものだと思うのですが、残り99を創出している時間はある意味無価値とも言えます。合理的な人間ならば、価値あるものに時間と労力をかけて生きるため、1つが見つかるかも分からず徒労に終わるかもしれないことに時間を掛けづらい(ような世の中になっている)のが要因だと思います。

最後に共感性なのですが、これは正直どうやって高めていいかが分かりません。極端な話、何かを創造して論理的に落とし込んだのに「生理的に嫌だ」と言われてしまったら、仕方ないことだと理解しつつも共感はできませんよね。共感性が高いというのはこのように自分ではなかなか共感できない考え方についても理解して尊重することだと思うのですが、共感できない時点で「こうやって考えるひともいる」と認知するのは難しいです。なので、色々な人と関わって色々な考え方があることを知るのがまず第一歩でしょうか。

 

○余談:ポケモン対戦を例にしたヒントを考える

【創造性】

メガガルーラはゼルネアスのランク+2ムーンフォースを耐えられない」という考え方を逆転させて「ゼルネアスのランク+2ムーンフォースを耐えるメガガルーラ」を創造する。実際に、攻撃や素早さを諦めて特殊耐久を高めればゼルネアスの攻撃を耐えるメガガルーラを実現することができる。

【論理性】

しかし、それは本当にメガガルーラでやるべきことなのか、なぜメガガルーラでなければいけないのか…を次に論理として問う。

メガガルーラは攻撃や素早さが魅力であるため、それを捨ててまでやるべきなのか」

→吠えるを搭載すれば、猫騙し+ゼルネアスと並べながら相手のゼルネアスに強くすることができるので、本来の魅力である攻撃や素早さを捨ててでもやる価値はある。

「それはガオガエンではダメなのか」

猫騙し+ゼルネアスの並びはガオガエンが一般的だが、メガガルーラであれば猫騙し+ランク+2ムーンフォースで相手のガオガエンを倒すことができるので、一方的に吠えるを決めることができる点でアドバンテージが大きい。

「そもそもゼルネアスの攻撃を耐える猫騙し持ちであればトゲデマルはダメなのか?」

トゲデマルは吠えるを覚えないが、攻撃を耐えることができて相手のゼルネアスを麻痺させるなど弱体化を図れる。ただし、ゼルネアスが苦手な鋼タイプに対してメガガルーラの方が有効な打点を持ちやすい、そのためメガガルーラの方が望ましい

【共感性】

「俺、厨ポケ使いたくないからメガガルーラとか嫌なんだよねー」

→?? そういう考え方があるのは理解できるが、「ポケモン対戦で勝率を最大限高めるための構築を作る」という前提ならば共感はできない

・・・ということですが、ポケモン対戦の場合は広く普及することが目的ではないので、これでも問題ないですよね。

メガガルーラは極端な例でしたが、昔のシングルバトルにおけるラムめざ飛行カバルドンなんかは懐疑的に思われていたものが大会で結果を出したことによって評価されていったので、共感にはそういう説得力が必要なのかなという気がします。