「嫌われる勇気」を読んで。

「嫌われる勇気」を読んで。


さて、なぜこの本のことを知ったかからなのですが、なんと忘れてしまいました((

確実に記憶しているのは、漫画を購入するために立ち寄った本屋さんの検索機で本書のタイトルで検索をかけて、売り場で手にとったところ「2014年の年間第1位!」と帯の部分に書いてあり、それほどまでに売れているものだと思っていなかったので、いったいどんな内容なのかと気になったので購入をした、ということだけです。なので、どうやら本屋さんに立ち寄る前に本書のことをどこかで知っていたようです。


「人は変わることができない」と謳う悩み多き青年が「人は変わることができる」と謳う哲学者に納得ができず、その主張を論破しようと青年が哲学者を訪ねて語り合いを行うという物語形式で描かれており、文章はほぼすべて会話形式で成り立っています。
哲学者の語るアドラー心理学の話はその主張だけを見ても理解が及ばない部分が多いため、青年が疑問を抱いて尋ねるという形で論理に補足をしていける意味では会話形式は良かったでしょうか。ただ、会話形式を自然な形で行うと間に議論が入るので哲学者の論理主張で位置が部分的に離れてしまっているのはやや見づらいでしょうか。


本書の中にも例で出てきますが、18℃の井戸水でも吹雪の中を抜けてきた人にとっては温かく感じるし砂漠を彷徨い歩いた人にとっては冷たく感じるように、事実についてどう感じるかはその人それぞれの主観です。哲学者の主張は暴論だと青年が突き返しているように「物は言いよう」という印象を受けるかもしれませんが、私はそれで全然問題ないと思っていたので、そこそこ読みやすかったです。
とはいえ、最初に登場した青年が「世界も自分も変わらない」などと主張しているのを見て、その考え方は甘いのではないかと思い、その主張を聞く最初の展開にやや嫌気が指して最初はなかなか読み進められなかったです((


前半は大雑把な本書の内容を書いて、後半は私の感想です。



まず、青年と哲学者の一番の違いは、青年は「原因論」を唱えるのに対して哲学者は「目的論」を唱えていることです。
たとえば、いわゆる引きこもりに対して。青年の言う「原因論」では「彼は過去にいじめを受けたなどのトラウマがあって部屋に引きこもっている」というのに対して、哲学者の言う「目的論」では「彼は外に出たくないという目的があって、そのために不安な感情を作り出して目的通りに引きこもっている」という見方をするものです。
私の解釈が正しければ、片付けなんかも良い例で、「片付けるためには物を展開するスペースが必要だが、それがないので片付けができない」というのが原因論で「片付けるのが面倒だから、片付けない理由として物を展開するスペースがないことを挙げている」というのが目的論。しかも、本当は片付けた快適な部屋で暮らしたいと願っていながらも、片付いていない今の部屋でもひとまずは過ごしていける・・・という感じです。


そんな風に、劣等感を抱える青年も「自分のことが嫌で変えたい」と願いながらも変わらない理由を探している状態のようです。
「自分のことを変えたい」と思うのは人生は自己の向上を追求するものであるから自然なことだと哲学者は述べましたが、それは他者と比較して行う競争ではないとも述べています。自分が今いる位置よりも前進を続けていけば良いだけなのに、前にいる他者と比較して競争に負けていると認識するから他者の幸福を祝えず自分の負けであるように認識する・・・と。
そういう認識を取り払うために哲学者は「承認欲求の否定」を語ります。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」という言葉も出てきますが、誰かに認められたいと思うから認めてくれないことや認めてもらえない自分にマイナスな感情を抱き悩む・・・なので、悩まないためには誰かに認められたいというような承認欲求を抱かないという論理でしょうか。


承認欲求を否定する生き方としては「課題が誰の課題かを整理すること」で「他者に協力・援助はできるが、自分の課題を解決できるのは自分だけ」ということ「そのため、他者の課題には踏み込まないし、他者には自分の課題に踏み込ませない」です。
たとえば、私のことを嫌いな人がいたとします。誰かに嫌われている状態は愉快ではありませんが、それはその人の課題であって私の課題ではありません。今後の私の行動次第では私のことを好きになってくれるかもしれませんが、それは私の行動が課題を解決したのではなく、その人が私の行動によって何かしらの影響を受けて自分で自分の課題を解決しただけだ、という解釈です。
課題が誰のものかを整理できずに、他者に押し付けを行うから対人関係の悩みが生まれるということでしょうか。
わざわざ他者から嫌われたくはないですが嫌われることを恐れない生き方をすることが大事であり、誰かに嫌われているというのはある意味では自由を行使できている証とも言っています。そういう意味で本書のタイトルは「嫌われる勇気」という銘打たれているのでしょう。


承認欲求を否定した生き方をするためには、
「変えられるものとそうでないものを見極めて、今ある自分を受け入れる(肯定的な諦めと表現されている)、そして他者のことを信用(条件つき)ではなく信頼(無条件)する、それから他者のために何ができるかを考えて、他者の役に立てたときに自分の存在を認めることがでっきてそれに価値を覚えて、自分を受け入れられて・・・というサイクルで生きる」
ということだそうです(おそらくこんな風に端折って書いていい部分ではない)。


・・・というのが大雑把な内容でした。
全体的には共感できるものが多く、新たな考え方に触れることができたというよりも自分の中に持っていた考え方を整理できたというところです。



「自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する」という言葉はまさにその通りで、過去の経験によって現在・未来が決定されているように考えていては生きていても楽しくないですし、望まない出来事があったりしてもその経験から何かを学ぶこともできるはずで、そうすれば経験をしたことに意味を持たせることができるので、それが不幸せな出来事だと感じることは少ない気がします。


ただ、「承認欲求の否定」はやり過ぎなのではないかと思います。他者のために生きたり、誰かに評価をされるために生きているわけではないことには共感はできます。なので、それに依存度が高い生き方は常に自分にとって都合の良い他者がいてくれないと生きていけないので、それをずっと維持できるか保証はないため危険だと言えるのですが、否定とまですることではないかと思います。


承認欲求を否定する生き方の実践の中で気になったのは「無条件に信頼した他者の役に立てなかった場合はどうするのか」ということです。
極端ですが、片思いなどは良い例でしょうか。今ある自分を受け入れて、想い人を信頼(見返りを求めない)して何をしてあげられるかを考える・・・素敵な話ですが、もし想い人にとってその人が関わりたくない人であった場合。「役に立たない(関わらないようにする)」ことが想い人の役に立っていると解釈することはできるかもしれませんが、人間の性としてはそれで納得ができるのはよほど強い精神力の持ち主だけではないでしょうか。そんなときこそ「辛い現実を見たくないから、承認欲求を持って悩んでいることにする」みたいな目的論で必要な現実逃避もあるような気がします。


そんなことを考えると、何も承認欲求を否定する必要はないのではないかと思いました・・・と書いていたのですが、承認欲求の強い人がそうでない生き方をしたいと変わりたくて哲学者の話を聞いているのだとしたら、「否定する」という勇気を持たせないと楽な方に流れて結局変わらないままでいるからなのかもしれないとも少し思ったりはしました。


青年とは少し違いますが、私の身近にも他人や物のせいにして不幸を被ったことや私は悪くないとアピールする人がいます。
現実と向き合うということは自分に足りていないものや自分の思い通りにならないことと向き合わなくてはいけずに大変なので、今の状態を維持する方が楽に生きられます。その人にとっては、言い訳できる材料があるうちはある意味幸せなのかと思いますが、いつかその生き方が通用しなくなる日が来てどう変化対応していくかは少し楽しみではあります。
この表現だと人が不幸になることを楽しんでいるように見えるかもしれませんが、そもそも私は「私と出会った人、全員が幸せになってほしい」と考えているような人間で、何を持って幸せとするかという意見がありますが、この場合も私から見たら変化対応できていく方が幸せだと考えていて、不幸を願っているわけではありません。


断片的な話ですが、もう1点気になったのは「人間は全て同じではないが皆平等だから、対人関係を縦ではなく横の関係にする」という件で、「えらいねー」と子供を褒めるのはできる親ができない子供をを縦関係で評価しているという内容がありました。
人間みな対等なことには共感できますが、だからこそ評価を正当に行うためには対等の関係である必要があると思っていて、評価する側が上下関係で上にいるという考え方はしたことがありませんでした。「あのひとすごい…あこがれる!」みたいな憧憬の眼差しも素直な評価の一種だと考えると、少なくとも評価は上が下にするものという認識は持てませんでした。


・・・というのが個々の部分での感想でした。


私自身の生き方はアドラー心理学的な生き方と考え方に近い部分があると思いましたが、哲学者に話を聞いたわけでもないのに、その考え方をいつどの段階で手に入れていたのかというのが気になりました。
因みに、自分のことをとても低く評価している作中の青年ですが、哲学者とこれだけ議論をかわすためには自分の考え方を持っていなくてはならないし、相手の考えを聞いてそれを租借する能力も必要ですし、文中で出てくるボキャブラリーの豊富さもあって、なかなかすごいと感じました。


作中でも「自分のことを好きじゃない人生が一番不幸せだ」と書いてありましたが、全く持って同感です。
自分を彩るすべての要素が好きだとは言えませんが、いまここに生きている私のことを好きでいられるので、そういう私でいてくれてよかったなと思います(たぶんこういうのが作中で出てくる「自己受容」)。


最初に18℃の井戸水の話をしたように、物事をどう捉えるかは主観によるものです。
そんなわけで、本書で語られる考え方に関しても関心を持って理解を深めようとしながらも自分に都合の良いように認識しておけばいいのではないかと私は思っています。